「わかっていたが後回しにしてきた原則」が問われる理由 ― 分散・流動性・継続性は、なぜ今まで軽視されてきたのか
前回は、「フォースマジュール(不可抗力)」という言葉が企業の現場で増えている背景を入口に、効率化が生んだサプライチェーンの脆さと、供給の「当然」が揺らぎ始めた世界の変化を見てきました。
では、こうした世界の変化は、資産の設計とどう関係してくるのでしょうか。
「分散投資が重要だ」「流動性を確保しておくべきだ」——こうした原則は、以前から言われてきたことです。
しかし、知っていることと実践することの間には、長い間、構造的な理由がありました。原則を守ることが、ある時代においては「非合理」に見えた——その理由と、今まさにその構造が変わり始めていることを、今回は丁寧に見ていきます。
分散・流動性・継続性——70年前から言われてきた原則
資産運用の世界には、長い時間をかけて積み上げられてきた原則があります。
「一つのカゴに卵を盛るな」という古い格言があります。資産を一箇所に集中させず、分散して持つことでリスクを下げるという考え方です。この発想は経験則としては古くからありましたが、1952年に経済学者ハリー・マーコウィッツが「現代ポートフォリオ理論」として数学的に体系化し、後にノーベル経済学賞を受賞しました。分散投資が「感覚」ではなく「理論」として確立されたのは、70年以上前のことです。
流動性の重要性も、同様に古くから知られています。どれだけ価値のある資産でも、必要な時にすぐ換金できなければ、いざという局面で役に立たないことがある。この考え方は、機関投資家や資産管理の専門家の間では基本中の基本として共有されてきました。
資産の継続性——つまり、自分の代だけでなく次の世代へと資産の骨格を保ち続けるという視点——もまた、富裕層の資産管理においては古くから重視されてきたテーマです。
では、なぜ今あらためてこの話をするのか。答えは、原則を守ることに、長い間コストがかかり続けたからです。
強気相場が続くほど、分散はリターンの足を引っ張った
1990年代以降、世界の株式市場は長期的な上昇トレンドを経験しました。特に米国株式市場は、IT革命、金融緩和、グローバル化などを背景に、短期的な調整を挟みながらも長期的には大きく上昇しています。
代表的な株価指数であるS&P500指数は、配当込みベースで見ると、1990年初に100ドル投資した場合、2023年末には約2,800ドル相当まで増加したとされ、年率換算では約10%前後のリターンとなりました。(参考:Official Data S&P 500 returns since 1990)
また、2010年代の米国株市場は特に強く、S&P500の年間リターンは、
- 2019年:+31.5%
- 2020年:+18.4%
- 2021年:+28.7%
と、高い上昇率を記録しています。(参考:スリックチャート)
このような環境では、分散投資の原則を忠実に守るほど、相対的なリターンが低く見える局面が続きました。
例えば、現金、債券、金(ゴールド)、新興国資産、などを組み合わせるよりも、米国大型株へ集中投資した方が高いリターンを得やすかった時代だったとも言えます。
その結果、「分散して持つ」ことはリスク管理ではなく、“機会損失”として映る場面も少なくありませんでした。
運用の世界では、同業他社や市場平均との比較が常に行われます。原則を守って慎重な配分を続けても、強気相場の中でリターンが見劣りすれば、「なぜもっとリスクを取らないのか」という評価につながることもあります。
こうした構造の中で、分散という原則は、「重要なのは分かっているが、今は後回し」という扱いになっていった側面もあるのかもしれません。
流動性の確保もまた、コストとして映った
流動性についても、同じ構造がありました。
手元に余分なキャッシュを持つことは、運用に回せる資金を減らすことを意味します。不動産や私募ファンド、プライベートエクイティといった流動性の低い資産は、換金に時間がかかる反面、高いリターンが期待できるとされてきました。
低金利・強気相場の環境下では、こうした流動性の低い資産への投資が積極的に行われ、実際に高いリターンをもたらすケースも多くありました。「いざとなれば動ける余地を残しておく」という考え方は、平時には「機会を無駄にしている」と映ることもあったのです。
「原則はわかっている、しかし今は必要ない」が通用した時代
分散も流動性も、その重要性は誰もが知っていました。しかし長い強気相場と低インフレが続く中では、「今は必要ない」という判断が、それなりに合理的だったのです。
平時が長く続くほど、備えはコストに見えます。保険料は何も起きなければ損に見え、余分なキャッシュは機会損失に見え、分散は非効率に見える。これは個人の怠慢ではなく、そう見えるように設計された環境の中で、多くの人が合理的に判断した結果でもあります。
しかし、その「後回しにすることの合理性」が、揺らいでいます。
インフレとは何か——「何もしないこと」がリスクになる状態
変化の一つ目は、インフレの長期化です。
インフレとは、物やサービスの価格が持続的に上昇することです。裏側から見れば、お金そのものの価値が下がることを意味します。
例えば、銀行預金の金利が0.1%でも、物価が5%上昇すれば、実質的には資産価値が目減りしていることになります。
長らく低インフレやデフレが続いた日本では実感しづらい状況でしたが、2020年代に入り、世界的にインフレ率が急上昇しました。
2022年には、米国の消費者物価上昇率(CPI)は前年比7.9%に達し、ユーロ圏でも5.9%、英国では6.2%を記録しました。これはいずれも約40年ぶりの高水準とされています。(参考:Intereconomics)
背景には、
- コロナ禍からの急速な需要回復
- サプライチェーンの混乱
- エネルギー価格の高騰
- 地政学リスク
などが重なっていました。
低インフレの時代には、現金や預金を保有していても、実質価値は大きく変わりませんでした。しかし、インフレが定着する環境では、「何もしないこと」自体がリスクになります。
この変化は、資産設計の前提そのものを、ゆっくりと変え始めているのです。
インフレで得をする資産、損をする資産
インフレ環境では、資産の種類によって影響が大きく異なります。
現金・預金
現金・預金は、インフレに対して最も無防備な資産の一つです。金利が物価上昇に追いつかない限り、実質的な価値は目減りしていきます。
例えば米国では、2022年の消費者物価上昇率(CPI)が前年比8.0%を超える一方で(米労働省統計)、当時の普通預金金利は1%未満の水準が一般的でした。実質的には、現金を保有しているだけで購買力が大きく低下したことになります。
債券
債券は、固定された利息を受け取る仕組みのため、インフレが進むほど実質利回りが低下します。
特に長期の固定金利債券は、インフレと金利上昇に弱い傾向があります。実際、米国の長期国債ETF「iShares 20+ Year Treasury Bond ETF(TLT)」は、FRBによる急速な利上げが進んだ2022年に年間で約30%下落しました。これは、近年の米国債市場としては異例の大幅下落でした。(Bloombergデータ)
株式
一方、株式は、企業が価格転嫁に成功すれば収益を維持・拡大できるため、インフレへの耐性が比較的高い資産とされています。
実際、1970年代の高インフレ局面でも、エネルギー・資源関連企業の一部は大きく上昇しました。また、2021年から2023年にかけても、資源・エネルギー関連企業は世界的な資源価格上昇の恩恵を受けています。
ただし、インフレ対応のための利上げは企業の資金調達コストを押し上げるため、株式市場全体には逆風となる場合があります。
実際、米国株式市場では2022年にNASDAQ総合指数が年間で約33%下落し、金利上昇が高PER銘柄へ大きな影響を与えました。
実物資産(不動産など)
実物資産──不動産、コモディティ(原油・金属・農産物など)、インフラ関連資産──は、インフレ環境下で注目されやすい資産です。
1970年代のスタグフレーション期には、米国株式市場が実質ベースで低迷する一方、金(ゴールド)は1971年から1980年にかけて価格が約35ドルから800ドル近くまで上昇しました。(World Gold Council資料)原油価格も第一次・第二次オイルショックを背景に大幅に上昇しています。
また、S&P GSCI(代表的なコモディティ指数)は、2021年から2022年にかけてエネルギー価格高騰の影響を受け大幅に上昇しました。
もちろん、これはあくまで過去の事例であり、同じことがそのまま繰り返されるとは限りません。
しかし、
- インフレによって現金の実質価値は低下しやすい
- 固定金利資産は逆風を受けやすい
- 実物資産は相対的に注目されやすい
という構造自体は、現在でも資産設計を考える上で重要な視点と言えるでしょう。
地政学リスクの常態化と、供給網の不安定化
変化の二つ目は、地政学リスクの常態化です。
かつては「例外的な出来事」として扱われていた地政学的な緊張が、今や世界の各地で継続的に発生しています。特定の国や地域への資源・技術・生産の集中は、平時には効率的ですが、対立や制裁、紛争が起きた局面では供給が突然遮断されるリスクをはらんでいます。
変化の三つ目は、供給網の構造的な不安定化です。コロナ禍、自然災害、地政学的な緊張——これらが単発の出来事ではなく、重なり合うように続いています。前回触れたフォースマジュール条項の増加は、こうした構造的な変化を企業が肌で感じていることの表れでもあります。
「今まで通り」への依存が、最大のリスクになる局面
インフレの長期化、地政学リスクの常態化、供給網の不安定化——この三つの変化は、いずれも「平時が永続する」という前提に疑問を投げかけるものです。
効率化とグローバル化による長い成長の時代、そして低インフレ・低金利による長い強気相場。この二つが重なった数十年間は、「今まで通りが続く」という前提のもとで意思決定することが、多くの場合において合理的でした。
しかし、その前提を支えていた条件が、一つひとつ変わり始めています。
「原則はわかっている」という状態から、「原則を実践する」という状態へ。この移行を促しているのが、現在の環境変化だと言えます。分散・流動性・継続性という原則は、新しいものではありません。しかし「今は必要ない」と後回しにしてきた構造的な理由が、少しずつ通用しなくなってきている。それが今という時代の一つの特徴です。
次回予告
原則が「なぜ後回しにされてきたか」と「なぜ今問われているか」を、この回では見てきました。
では、実際の資産設計においてこれをどう考えればよいのか。インフレと実物資産の関係、流動性の点検、そして「オプションコスト」という発想——次回は、設計の思想と具体的な視点を整理していきます。資産を「増やす」だけでなく、「生き残る設計」とは何かを考えていきます。
本連載は以下の、専門家および資産運用・ファイナンシャルアドバイザリー会社の情報提供を基に作成しています。
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三浦 龍太郎(Ron Miura Ryutaro)
両親は日本人のシンガポール国民/資産保全コンサルタント
日本の公立学校卒業後に米国および英国での留学・大学院修了後、海外金融業界に進み、現在はシンガポールを拠点に14年以上にわたり、日本人およびアジア在住の顧客を中心に資産運用・国際資産管理の分野に従事。
海外金融機関の活用、クロスボーダー資産管理、海外居住者向けの資産戦略など、実務経験に基づく情報を日本語ニュースレターや各種メディアを通じて発信している。
また、シンガポール移住や現地生活・金融環境に関する実務的なアドバイスも提供している。
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