世界は今、何が変わっているのか「フォースマジュールという言葉が増えている理由」
「値上げします」「供給を停止します」——そうしたニュースが続く中、企業の契約書や発表文に、ある言葉が増えています。
「フォースマジュール(不可抗力)」です。
本来は非常時のための条項であるこの言葉が、なぜ今、日常的に使われるようになっているのでしょう。
その背景には、ここ数十年で私たちの社会を豊かにしてきた「効率化」という仕組みの、構造的な弱さが関係しています。
オイルショック、タイ洪水、コロナ禍の半導体不足。一点が止まると全体が揺らぐ——そうした出来事を繰り返し経験しながら、世界は今、「供給できることを当然とする時代」の終わりに差し掛かっているのかもしれません。
今、世界で何が起きているのでしょう。
契約書に現れた、小さな異変
最近、ビジネスの現場で少しずつ耳にする機会が増えている言葉「フォースマジュール(Force Majeure)」。フランス語に由来するこの言葉は、日本語では「不可抗力」と訳されます。
法律や契約の世界では、以前から使われてきた概念です。地震や洪水などの自然災害、戦争や政変、あるいは大規模な感染症の流行など、当事者の努力や意思では回避できない事態が起きた場合に、契約上の義務や責任を一時的に免除・限定するための条項です。
わかりやすく言えば、「私たちの力ではどうにもならない事態が起きた場合、約束通りに履行できなくても責任を問わないでください」という取り決めです。企業間の売買契約や物流契約、エネルギー供給契約などに盛り込まれており、本来は"非常時のための保険"として機能するものです。
この条項自体は、以前から存在していました。しかし近年、その言葉が契約書の中で増えているだけでなく、企業の決算発表や株主向けの文書、さらには一般向けのニュースリリースにまで登場する頻度が高まっています。
なぜ今、この言葉が増えているのか。そこには、世界の供給構造に起きているある変化が関係しています。
「効率化」が世界を豊かにした時代
その変化を理解するためには、まずここ数十年の世界経済が何によって成長してきたかを振り返る必要があります。
キーワードは「効率化」です。
1980年代から90年代にかけて、製造業を中心に広まったのが「ジャストインタイム(JIT)」という生産方式です。必要なものを、必要な時に、必要な量だけ調達・生産するこの考え方は、トヨタ生産方式をルーツとして世界中に広がりました。在庫を持つことはコストであるという発想のもと、倉庫に積み上げる在庫を極限まで減らし、部品や原材料は使う直前に調達する。これによって企業は、資本を無駄なく使えるようになりました。
同時に進んだのが、グローバルな分業体制の構築です。人件費の安い国で製造し、技術力の高い国で設計し、消費地に近い国で販売する。インターネットとコンテナ物流の発展がこれを支え、企業はより少ないコストで、より大きな成果を出せるようになりました。
この仕組みは、企業だけでなく私たちの生活も豊かにしました。世界中の商品が安価に手に入り、物流は高速化し、かつては高価だったものが誰でも買えるようになった。効率化は、現代の豊かさを支える大きな柱の一つだったと言えます。
しかし、効率化された社会は「止まること」に弱かった
ところが、この仕組みには構造的な弱点がありました。
在庫を持たない設計は、供給が止まった瞬間に機能しなくなります。調達先を一箇所に集中させることはコスト効率を高めますが、その一箇所が止まれば全体が止まります。グローバルな分業体制は効率的ですが、その分だけ遠くの出来事が手元に影響しやすくなります。
つまり、効率化によって「余裕」が削ぎ落とされた分だけ、社会全体の耐久力も削ぎ落とされていたのです。
過去の事例
これが現実として露わになったのが、いくつかの大きな出来事でした。
第一次オイルショック
1973年の第一次オイルショックでは、中東の産油国が原油の輸出を制限したことで、エネルギーに依存する製造業・輸送・日常生活にまで影響が連鎖しました。日本では物価が急騰し、トイレットペーパーの買い占めが社会問題になったことは今も語り継がれています。当時の消費者物価指数(CPI)は前年比平均11.5%上昇、翌1974年には20%を超える急激なインフレとなりました。エネルギーという一点が止まっただけで、社会全体が揺れた出来事でした。
タイ洪水
タイは当時、世界有数のHDD(ハードディスクドライブ)生産拠点でしたが、2011年の洪水によって主要工場が浸水。特にWestern Digitalは生産の約60%をタイ工場に依存しており、生産停止によって世界的なHDD供給不足が発生しました。
HDD価格は世界的に急騰し、供給正常化には1年以上を要したとも言われています。部品供給の停滞はパソコンや電機業界、自動車産業にも波及し、「一地域への過度な集中」が世界全体へ影響する構造が明確になりました。
コロナ渦における半導体不足
そして記憶に新しいのが、2020年以降のコロナ禍における半導体不足です。工場の稼働停止と需要の急変動が重なり、自動車や家電に使われる半導体の供給が世界的に逼迫しました。2021年にはGM、Ford、Toyota、Nissanなど主要メーカーが相次いで減産や工場停止を発表し、GMは北米を中心に複数工場の稼働停止を実施しています。
調査会社IHS Markitは、2021年第1四半期だけで世界の自動車生産が数十万台規模で減少すると試算しており、半導体という一部部品の不足が、自動車・物流・販売・雇用にまで広範囲な影響を及ぼしました。
かつてであれば在庫として手元に持っていたはずの部品が、JIT方式の徹底によって存在していなかったのです。
3つの共通すること
これら三つの出来事に共通するのは、「一部が止まると全体に波及する」という構造です。効率化によって余裕が削ぎ落とされた社会は、一点に問題が生じるだけで連鎖的に揺らぐ。平時には強さだったものが、非常時には脆さへと反転する。そのことを、私たちは繰り返し経験してきました。
企業が「供給できること」を当然としなくなった理由
こうした経験の積み重ねが、企業の意識を変え始めています。
現在、世界では地政学リスクの高まりによって、原材料の調達、海上輸送、エネルギー供給といったサプライチェーンの各所が不安定化しています。特定の国や地域への依存度が高い産業ほど、この影響を受けやすい状況が続いています。
こうした環境の中で企業が取り始めた行動の一つが、契約におけるフォースマジュール条項の明示・拡充です。「供給できなくなった場合の責任をあらかじめ限定しておく」という動きは、裏返せば「従来通り供給できる保証が揺らぎ始めている」という認識の表れでもあります。
値上げの発表や供給停止のニュースが相次いでいる背景には、単純なコスト上昇だけでなく、「継続できなくなるリスク」への警戒感が企業側にあると言えるでしょう。供給することを"当然"としてきた時代が、変わり始めているのです。
では、市場はこの変化をどう見ているのか
こうした現場の変化とは対照的に、株式市場は高値圏を維持しています。ニュースでは供給不安や地政学リスクが報じられる一方で、市場は比較的落ち着いているように見える。この温度差をどう解釈すればよいのでしょうか。
一つの見方は「市場は楽観的だ」というものです。しかしもう少し丁寧に見ると、必ずしもそうとは言い切れません。
インフレが進む環境では、現金で資産を持ち続けることは、静かに価値が目減りすることを意味します。銀行に預けておいても、物価の上昇に金利が追いつかなければ、実質的な購買力は下がり続けます。このような状況では、リスクを十分に認識しながらも、現金や債券より株式や実物資産に資金を置く方が合理的だという判断が働きます。
つまり市場の高値は、「何も心配していない」という楽観の結果ではなく、「それでも他に行き場がない」という消去法の結果でもある可能性があります。現場の危機感と市場の動きは、必ずしも矛盾しているわけではないのです。
ただ一方で、「今まで通りが続く」という前提に依存しすぎることへの注意は必要かもしれません。かつては非常時のための保険だったフォースマジュールという言葉が日常的に使われ始めているという事実は、企業の現場が何かを感じ取っていることの表れとも読めるからです。
次回予告
世界の供給構造が変わりつつあること、そしてその変化が企業の行動にも現れ始めていることを、今回見てきました。
ではこの変化は、資産の設計とどう関係してくるのでしょうか。
「分散投資が重要だ」「流動性を確保しておくべきだ」——こうした原則は、実は以前から言われてきたことです。しかしそれが長い間、多くの場面で後回しにされてきた理由があります。
次回は、その「なぜ後回しにされてきたのか」という構造的な理由と、今まさにその原則が問われ始めている背景を見ていきたいと思います。
本連載は以下の、専門家および資産運用・ファイナンシャルアドバイザリー会社の情報提供を基に作成しています。
業務提携パートナーのご紹介
三浦 龍太郎(Ron Miura Ryutaro)
両親は日本人のシンガポール国民/資産保全コンサルタント
日本の公立学校卒業後に米国および英国での留学・大学院修了後、海外金融業界に進み、現在はシンガポールを拠点に14年以上にわたり、日本人およびアジア在住の顧客を中心に資産運用・国際資産管理の分野に従事。
海外金融機関の活用、クロスボーダー資産管理、海外居住者向けの資産戦略など、実務経験に基づく情報を日本語ニュースレターや各種メディアを通じて発信している。
また、シンガポール移住や現地生活・金融環境に関する実務的なアドバイスも提供している。
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